益者三友、損者三友2021年04月15日 10:39

先日、朝の番組で「今でしょ」の林先生が解説していらっしゃいました。

「益者三友」とは
自分にとって有益な3種類の友人の事で
「損者三友」とは
自分にとって害をなす3種類の友人の事だそうです。

原文では
「孔子曰。益者三友。損者三友。友直。友諒。友多聞。益矣。友便辟。友善柔。友便佞。損矣。」

現代語訳すると
「先生がおっしゃった。有益な友が三種、有害な友が三種ある。人間のまっすぐな〈直〉なる者、誠実な者、知識のある〈多聞〉の者を友にするのは有益だ。反対に、まっすぐものを言わないで追従する者、裏表があって誠実でない者、口ばかりうまい者を友にするのは、有害だ。」(斉藤孝=訳 現代語訳論語)

我が身を振り返ってると
対等な関係であり、本心をぶつけても関係が壊れないという確信のある(心理的安全性が確立できている)相手には「有益な友」としていられるのではないでしょうか。
対等では無く、関係して「もらっている」と思っている相手、
自分を評価する相手に対して自分を上手く大きく見せたい場合には「有害な友」の振る舞いとなっている事が往々にしてあるのではないのでしょうか。

私の場合、元来明け透けで「人間と人間」としての関係を好み、そういった関係を作りたいと願う傾向があるのですが、企業やビジネスの場ではそうでない場が多いです。
むしろ古い体質の大企業内での人間関係なんて「損者三友」な振る舞いの人間のほうが上位者から評価され重用されると思っています。
上司なんて部下を見る目や器なんて持っていませんし、自分の上役に取り入る事しか考えていません。まさに損者の振る舞いです。
(出世できない者の僻みです。はい。さらに私の勝手な見識です。実在の物とは関係ありません。ここまでフォローしとけば逃げきれますか?)
そういった企業の中でのOJT(On the Job Training)や1on1は本当に人材開発にとって有益・有用なのだろうかと常々考えてきました。
互いに損者の振る舞いになってしまっている者同士のコミュニケーションで「益」が発生するのかと。

そんな事を考える中でコーチングにおける『コーチ』という存在に関して考えてみました。

①直なる者:
コーチはクライアントと自分にに対して常に正直に在り続けます。正直にクライアントを見つめ、声に耳を傾け、飾ることなく在りのままをフィードバックします。まさに「直なる者」

②諒なる者:
クライアントに対して誠実に寄り添い、思いやりをもって接します。そこに自分の損得は無く、裏表はありません。

③多分の者:
コーチをしている人は常に学習しています。それは自身の自己基盤の確立、器を大きくするための物ですが、基本的に上昇志向の強い人が多いように思います。そうやって学び得た物をクライアントに提供、共有する事を厭いません。

ここまで書くと「何なの?コーチって『聖人君子』なの?何様!?」って思われるかと思いますが、私の知る限り真面目にコーチングをしようとしている人は現代社会の荒波の中では損ばかりしてるような「バカみたいなイイ人」が多いように思います。『聖人君子』ではないけども『聖人君子の様に在りたい』と本気で思っている人たちです。
私もまさにそうです。(笑)
正義感が強く、曲がった事・浅ましい事・ズルする事が大嫌い。
そんな中で『正しい人・優しい人』が報われない事にジレンマを感じています。
理想は高いけど、まだまだ自分は達していない事も自認して努力をします。そんな人が多いような。

そんな「バカみたいなイイ人」を友として人生で得をしてみてはどうでしょうか。

そんなことを思う今日この頃。

「森会長問題」に思う2021年02月12日 10:47

私の様にコーチをしている人間は相手のいう事を肯定も批判もせず、まず「受け止める」事を心がけます。(ですよね?)

「受け入れる」ではなく「受け止める」

クライエントが社会的に間違った事を言っていても、まず、「この人はこういう風に感じているんだ。こういう考えを持っているんだ。」と受け止めるんです。

「社会的に間違った発言」に自分の考えを合わせて賛同する(受け入れる)必要もなければ、否定して相手の考えを正しく導く必要もありません。

受け止める事によって「否定・拒絶・批判されない」と感じたクライエントは自由な発想を安心して話せるようになるんです。それが自己肯定感・自己効力感・自信となり、前向きなモチベーションに繋がります。それがさらなる自由な発想や前向きなチャレンジにつながるんです。

さて、今回の「森会長問題」に際して私は以下の様に考えます。

人には思想の自由、思考の自由があります。その自由な思想・思考に基づいて他人の自由や権利を侵害し始めれば周囲が対応する必要があるでしょう。

今回、森会長は女性を排除しようとしてどなたかの自由や権利を侵害したのでしょうか。会長の思想として「女は競争心が強く話が長いから理事会での人数を抑えるべきだ」という思いがあったかもしれませんしかしその信念に基づいて理事会から女性を排除するための行動を起こされていたのでしょうか。

もし、JOCという組織が健全であれば「いやいや、会長はそう思っていても世間体のために女性を増やさなければ」「男性より女性の方が優秀なんだから女性をもっと増やさないと」「男とか女とかそういう問題じゃなく優秀で実績がある人間を理事にしてその結果が全員男でも全員女でも良いじゃないか」という多様な考えの下に運用すべきではないでしょうか。

トップの思想に対して忖度し慮って行動する、トップの下には志や正義感のない組織であれば今回の様に外圧によってトップを交代させるという手段もあるかと思いますが、成熟した組織であればトップの間違いを組織内で正すことが事が可能だと思います。という事は・・・JOCは未成熟の組織であることを内外に示してしまった結果となったのではないでしょうか。

「森会長個人はそう考えているが、あくまで会長個人の認識であり組織としての決定事項ではない。多様な意見を持つ人間の集まるJOCはすべての個人の意見を尊重するが、組織としてはジェンダーで人を判断する様な事は無い。」くらいのことは言えなかったのでしょうか。

そして大喜びで他人の発言を批判するフェミニストやメディアの方たちは、森会長の発言が「間違っている」と批判したいのであれば「女性が多い会議」と「男性のみの会議」の有効な発言数、無駄な発言数、会議時間、決定事項の有効性等を比較分析してデータで示して突き付ける必要があると思います。それが出来ないのであればその方達の批判はあくまで感情だけのもので何の根拠も無いものであり、ただ感情だけで動いているイジメやサベツと何ら変わらない物だと思います。(たとえ事実であっても女性・男性で差がある事を口にするのが悪という事であれば仕方ないですが、それも個人の認識であり他人に強要するものではないと思います。)

多様性が叫ばれる時代において前時代的な思想・考えを全否定する風潮には全く多様性が無いと感じるのは私だけでしょうか。

声の大きい人が正義、弱者擁護こそ絶対正義、正義を否定するものは「悪」・・・?

正義なんてものはあくまでその時代、その集団での判定であり不変なものでは無いと思います。その中で他を受け止める事無く自分の正義を信じてマイノリティーを排除するのはいかがなものでしょう。

マジョリティーもマイノリティーも堂々と自らの主張を行い、皆で議論し判断してその時代・その集団でのベターを探る事はできないのでしょうか。

テレビとのしばしの別れ2020年11月11日 14:48

物心ついてから我が家のリビングには常にテレビがありました。
ガチャガチャからプチプチに変わり(中高年以下はわからないかな?)
リモコンが登場したときは大革命が起きたように感じたものでした。

思えば保育園児、小中学生の頃は家に帰ったらまずテレビの前に向かっていたように記憶しています。

高校生時代はそれなりに勉強していたので見る時間は減りましたがそれでも見ない日はなかったと思います。

実家を出て大学生、社会人と一人暮らしをしていたころは
帰宅すると照明より先にテレビをつけるほどのテレビっ子。

そんな私が先週末、家族で出掛ける自家用車内で
テレビを流して目的地に向かっていると
コマーシャルが流れる度に子供たちが声を合わせて暗唱します。

ほぼすべてのコマーシャルを覚えているって・・・
どんだけテレビ見てるの!?

はい、お父さんは思わず提案しました。
「来週1週間、ノーテレビウィークとすることを決定いたしました」

最初はブーブー言っていた子供達ですが
今日、ヒアリングしてみると
1年生の長男は
「静かになって集中して本が読めるからいいと思う。宿題も気が散らずにできるし!」
などと意外な言葉。
テレビ見たいと思わない?と訊くと
「本当に見たい番組だけ時間を決めて録画して休みの日に見れればいいかな。」と。
なんという事でしょう。
4年生の長女は最初難色を示しましたが弟の案を伝えると
「それでもいいよ!確かに習い事の宿題も順調な気もするし。」と。あら意外。
これまでこの子達をテレビ漬けにしててのは実は私だったのかもと考えさせられました。
我が家で本当にテレビ中毒だったのは子供達ではなく親だったのです。

実際、テレビを見ないようにすると私自身も読書量が増えています。
放送大学の講義の予習も受講も捗ります。
困る事と言えば・・・それぞれが本や学習に集中するあまり夫婦の会話が減るぐらいで。

そう、人生におけるかなりの時間をテレビに奪われていた事にいまさらながら気づきます。
それはYouTubeしかり、ゲームもしかり。

娯楽としても情報としても本当に必要なものを選んで手にする必要を感じています。

私の場合、主に歴史シミュレーションゲームでしたが、(古代中国や日本の戦国時代の武将にはそれなりに詳しくはなりましたが)かなりの時間を浪費して来た事に気づきました。
それは今、私自身にやりたいことがいっぱいあって時間が足りないと実感しているからだと思います。
学習する中で「もっと知りたい、もっと読みたい、学習したい、時間が足りない」と実感しているからこその気づきと後悔。

こういう事もあり、子供達にはゲーム機を与えたくないと思うのは親のエゴでしょうか。

さてさて、今週末からはテレビ限定解禁となり、
平日はノーテレビデーが続くようです。
いつまで続くか見ものです。

「子供4人を東大医学部へ入れた主婦」への違和感2020年10月20日 23:30

最近、インターネット上やヤフーニュースの記事で
「子供4人を東大医学部へ入れた主婦の~」
という記事をよく見かけます。

私自身が育児や教育関係の記事を読むことが多いせいか
これ系の記事が上位に上げられるのも原因の一つではあると思いますが。

私はこの記事の表現が好きではありません。
はい、嫌いです。

この主婦の方を批判している訳ではありませんし
この方なりに子供達の事を必死に考えて行動してきた事も
それがお子さん達の進学実績につながったという事も否定しませんし
素晴らしいことだと思います。
「お疲れさまでした」という言葉を送ります。

しかしながら、これらの記事は
この方の家庭と行動を一般化して煽るように思えて危うさを感じるのです。

この方は自身もご主人も立派な学歴でいらっしゃる事から
おそらくお子さん達もご両親の認知的能力を遺伝子として受け継がれている事と思います。
また、ご家庭の経済力も一般的な家庭よりもかなり裕福な環境であるようにも見受けられます。
そのような優位な条件を酷使してご自身でできる事を最大限行って
結果、お子さん達は全員東大理三に合格されたのだと思いますが
果してお子さん達はお母様に東大理三に「入れられた」んでしょうか。

希望もしていないのに無理やりあれこれやらされて
机に嚙り付かされて訳も分からない内に東大理三に「入れられた」のでしょうか。
いえ、お子さんたちが希望に燃えて、夢をかなえるべく頑張って東大理三合格し、お母様が一生懸命サポートされた結果であってほしいと願います。

記事の題名『子供4人を東大医学部へ入れた主婦の~』からは
夢と希望に燃えて努力して
その結果合格を勝ち取った子供たちの視線が
消えてなくなっているように感じませんか?
私はそこに違和感を感じているんだと思います。

この記事の題名の表現では
親さえ頑張れば、親の力で子供を難関大学に入れられると勘違いする「お母様」を量産する事になりそうな危機感を(勝手に)感じます。

実際、小学校受験や中学受験に際した親御さんの中には
自分(や配偶者)の知的レベル、家計レベルを勘違いしてしまい、
自ら「お受験」に打ち込み、子供に打ち込ませて身の程以上の結果を(子供に)要求する方たちが多くいます。
運よく身の程以上の学校に入れたとしても勉強に付いて行けず落ちこぼれる事、経済的負担からのトラブルに合う事、多くのリスクを背負います。まったく大きなお世話でしょうが、親には同情しませんが子供にかんしては何とかしてあげられないかと考えます。

お子さんの難関校合格という「目標」の向こうに
どのような親の「目的」があるのか、
こういった加熱する受験の若年化がはらむリスク、
メンタル面へのリスクも含めて考えてしまいます。

お子さんのお受験に関して不安かある、迷いのある保護者の方にも
コーチングは有効な面があると思います。

学生気分2020年10月10日 00:03

10月1日付で放送大学に入学し
先日学生証が届きました。
晴れて名実共に2回目の大学生という事で
学生気分を味わっております。

・・・学生気分って何?
1回目の大学生時代、遊ぶ気と部活する気しかなくて
勉強は卒業するためにするものであり
知識欲や学問に対する向上心はあまり無かったように思います。

今はどうでしょう。
勉強する気と知識欲しかありません。

心理学における「自己決定理論」では
(学習の)動機付けを4つの段階に分類します。

1.『外的調整』:学習する事に価値を認めていないが他者からの賞罰による働きかけで学習する。

2.『取り入れ的調整』:不安や義務感、あるいは自己価値を維持するために学習する。

3.『同一化的調整」:自分の将来のために必要だなど価値を感じて学習する。

4.『内的調整』:面白さや楽しさといったポジティブな感情を伴って自発的に学習する。

小学校受験とを控えた幼児などは多くの場合は1、少数の4ではないでしょうか。
中学・高校・大学受験は2、3が入り乱れ
大学生では多くが3,少数の4といった感じでしょうか。

私自身はというと小中学校時代は2
高校、大学時代は3がメインだったように思います。

そう、考えてみると楽しい、面白い、ワクワクするといった感情によって自発的に勉強した事など40を過ぎるまでなかった。
就職してからの資格試験の勉強でさえ2,3だったと思います。

今、勉強(学習)が面白い!!
おそらく、40年の人生を経験した中で興味を持ったのが心理学であり、
若く、人生経験のない時点の私は心理学に出会っていたとしても
ここまで面白さを感じなかったでしょう。
ある程度の人生経験を積んだ40~50代こそ
ホントの意味で学習の必要性を感じ面白さ・興味を感じられるのではないかとさえ思えます。
この年になって難しい教科書を読み、脳科学や統計学を理解するために幼い頃からずっと勉強をしてきたんじゃないかとも思います。

今、子供たちに「人は何のために勉強しなくちゃいけないの?」
と聞かれたら迷わず
「勉強したい事、面白いことに出会ったときに、それまでちゃんと勉強していかないと学習の仕方や文章の読み方がわからず、せっかく出会えた面白い事の本当の面白さや物事の本質を感じられないからだよ。」
と伝えます。(難しいかな?)

と、いう事でちょっとフライング気味に9月から毎日1コマづつ受講しています。
通勤時間に1度テキストを読み流し、夜帰宅後にインターネットで受講する毎日です。
「認定心理士」の取得といった目標はありますが、知識を得る事が目的ですのでテストさえ受かれば良いという学習ではなくしっかり学ぶことを心がけています。

いやぁ、楽しいですよ。人生のスパイスにもなりますし。

動機付けの4運類も「やる気」の部分に関して大切な要素です。
コーチングにも活かせる知識ですね。